「金の鳩」と益田・益阪酒造の歴史



七代目 益田嘉兵衛 初めて造酒

幼少の頃(明治以前)、大阪の大和屋五郎兵衛酒店に住み込みお酒の製造、販売 について学ぶ。

同店を退職したのち(時期不明)酒類販売卸小売業を営む。大阪近県のみならず、 四国、中国、遠くは長崎まで、廻船_「八幡丸」を新造し、商域を広げる。

明治九年(1876年)、初めてお酒を造る。また、唎き酒の名手として、近県に出張。

同年、一月三日。百舌鳥八幡宮に参拝祈願の折に、扇面に金の鳩が飛来する。これ を神与と受け止め、「金の鳩」という酒銘を商標登録し、世間に宣伝する。大正十四年 まで、継続する。

明治三十一年(1898年) 他界





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八代目 益田嘉平


   明治三十一年(1898年) 家督を継ぐ。

昭和二年(1927年)、建物・土地等を売却
この時代背景には、大正三年(1914年)勃発の第一次世界大戦、大正七年(1918年) 米騒動→酒米価格の暴騰などがあったと思われる。

昭和四年(1929年) 益阪酒造合資会社を設立? 代表は、益田嘉平。


百舌鳥八幡宮に金の鳩を奉納→奉納額の写真あり



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二年前に資産の売却を行って、益田ではなく、益阪酒造となっているのは、益田家か ら阪之上家に養子に行った人物(四代目阪之上清三郎)がおり、一旦会社 閉めた嘉平を経済的に助けたと思われる。阪之上家は、いまも残る南海塩業株式会社 で、塩の元売りを長年行ってきた名家。世界恐慌の年に、新会社設立というのは、興味 深い史実。

こうした激動の時代に、益田嘉平は、先代以上の営業利益をあげていった。

そして、時代は、昭和六年(1931年)の満州事変から、昭和十二年(1937年)の日中戦争 (支那事変)、昭和十四年(1939年)第二次世界大戦開戦、そして、昭和十六年(1941年) 大東亜戦争(東条内閣の閣議決定に基づく名称)の勃発。この間、他の業種と同様、戦 時下、様々な統制が敷かれ、日本の酒造業も大きな打撃を受ける。

昭和十七年(1942年)五月七日 益田嘉平、他界。

 



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九代目 嘉一郎

昭和十七年(1942年) 家督を継ぐ
阪之上商店酒造部に勤務。
昭和十八年(1943年) 戦時下統制により、堺市の酒造界も一業者となり、嘉一郎は、 永年の職場、酒造業界を離れ、大阪府塩元売捌株式会社に入社

嘉一郎は、その手記に終戦直後の様子と、父、嘉平のことを次のように記している。

「酒米の配給制限、堺市内各酒造庫の戦時物資の貯蔵、二十年七月十日の空襲に依り 全倉庫焼失時に、各銘醸家の酒の登録銘も新酒造会社の新泉銘に変わり、使用を自粛。 新倉を焼失跡に鉄骨コンクリート造りで、甲斐、市之町西一、二丁に数カ所設置せしが、 昭和四十七年他所の醸造家に売却、数百年に及ぶ歴史の幕を締める。」

「父は、堺酒造組合共に泉南郡酒造組合の毎年二月の新酒の全組合員の酒の審査委員 として大阪国税局の技師と共に、色香、こく等についての優劣に出席判定をした。又永年 に亘り堺小売酒販組合の組長として発展に功績多大なり。晩年は酬いられなかったが、英 彰小学校の現在の場所に(への)位轉に(際し)地主との交渉に盡力成功。又大浜橋の架 工新設について傍近住民に寄付を願ひ不足額は堺市補助??(不可読)。宿院の町住民 の大浜方面に赴く便利は誠に大である。大正十三年春竣工見た世人は、全く父の世の為 人の為に盡した事は知らない」