利休とキリスト教



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別の項目で触れたように、キリスト教の日本における布教にあたって、堺は重 要な拠点となったのだが、その中心人物、日比谷了 慶が、茶の湯の世界でも、 有名な人物であったことは、特筆しておくべきことだろう。利休の屋敷も、 今井宗久の屋敷も、日比谷了慶の屋敷の、すぐ近くにあったのだが、茶人、特に 利休(自身はキリシタンではなかったとされる)が、多くのキリシタンと交流し ていたことは、間違い無いであろう。実際、利休の妻と娘も、キリシタンであり、 ミサに出席していたようなので、利休も、このミサという儀式を見ていたと考え るのは、至極当然ではないだろうか?



興味深い書簡がある。武者小路千家14代家元不徹斎宗匠が、かつてヨハネ・ パウロ二世教皇に宛てたものだ。 「私は京都のカトリック系の学校に通っていたころを思い出します。すでに茶の 湯の心得があったので、チャペルでのミサに出席するときも、茶道との共通点を 少なからず発見しました。…司祭だけでなくキリシタンの武士や商人を相手に、 千利休が語らう機会は多かったはずです。妻と家族も信者であり、ミサにあずか っていたと思われます。ただし自身は、キリスト教徒だとは公言していません。 …茶道への新たなとりくみを模索していた千利休は、ミサという最後の晩餐の 再現に深い感銘を受けたのだと、私は考えます。」と書いている。 利休この書簡では、茶の湯とミサに共通するものとして、茶道とミサにおける所作 の類似性にとどまらず、さらに、そこに込められた精神的なもの、「ミサという 「最後の晩餐」の再現と「聖なるもの」と同一になるという精神性」が、利休が 大成した茶道=侘び茶に、少なからぬ影響を与えたのではないかということを、 認めているように思える。

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また、キリスト教の側からも、日本における布教においては、茶の湯を大変重視 していたことがうかがわれる。「キリスト教伝播の初期においては、教会内に茶 室を設けて来訪者に茶の湯を接待するなど信者の司教と布教のため茶道に開心を 示す文書もあり、当時の宣教師の残した文書の中にも「茶の湯は日本ではきわめ て一般に行なわれ、不可欠のものであって、我等の修院においても欠かすことが できないものである。」(アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノ『日本巡察記』) として、すべての教会内に茶室を設けて来訪者に茶の湯を接待することを指示し ています。往時のキリスト教と茶の湯は、想像する以上に濃密な関係を持ってい たといえるでしょう。」



茶の湯とキリスト教のミサの共通点とは、いったい、何であろうか? 類似している所作を二つ挙げておく。まず、食籠(じきろう)という菓子器の 菓子を取り回す作法が、ミサにおけるパテナ(聖体皿)に置いた聖体(種なし パン)を取り回して頂く所作と類似している。また、利休が始めた濃茶の作法 に「吸い茶」という作法があるが、これは、ミサで使われるカリスという杯の 飲み口を拭いて、順次手渡していく所作と類似しているというのだ。 しかし、もっと興味深いのは、精神的な類似性である。利休が考案した「にじり 口」から、「狭き門より入れ」という言葉が、想起されはしまいか?これは、 新約聖書のマタイ福音書7章13節に書かれた名言、 「狭き門より入れ、滅にいたる門は大きく、その路は廣く、之より入る者おほし」 の冒頭の言葉であるが、もし、「にじり口」に、このような思いが込められていた とすれば、私たち、日本人は、改めて利休という人物の生き様と思想を、熟考して みる必要があるのではないか? 最後に、茶の湯とキリスト教の関係の深さを物語る器物について記しておく。当時、 教会やキリシタン大名が特別に注文して作らせた茶道具、洗礼盤、聖水瓶、燭台、 向付、皿などが残っており、十字架文が明瞭に描かれている。キリシタン大名とい うことにはなっていないが、そうであったと断言する人もいる利休七哲の一人、 古田織部。彼の指導で作られた織部焼には、十宇のクルス文、篦彫りの十字文が 茶碗・鉢に施されており、 また、織部灯籠は、「十字灯籠」または 「切支丹灯 籠」とも呼ばれている。



利休(茶の湯)とキリスト教、古くて新しいテーマである。この二つのものが、 堺で出会った。「解剖台の上の、ミシンとこうもり傘の出会い」ではないが、 この歴史的な偶然から生まれたもの、それを、私たち日本人は、未だ充分に理解 していないのかもしれない。



上記は、ネット上でたまたま見つけた、興味深い論考「クリスマスと茶の湯」 を下敷きにまとめたものである。著者名は、わからないので、URLのみを記し ておく。

http://members.ctknet.ne.jp/verdure/Christmas/index.html



教会あるいはキリスト教信仰大名の特注茶道具、洗礼盤、聖水瓶、燭台、向付、皿などが作られ、十字架文が明瞭に描かれています。古田織部の指導で作られた織部焼には、十宇のクルス文、篦彫りの十字文が茶碗・鉢に施されていることは衆知のことです。 また、織部灯籠は、「十字灯籠」または 「切支丹灯籠」とも呼ばれています。

このような中で、利休の妻や娘も信者であり、ミサにあずかっていたと思われます。 利休は、堺において宣教師の行うミサの儀式を見ていたと考えるほうが自然ですし、ミサという「最後の晩餐」の再現と「聖なるもの」と同一になるという精神性に、己の進むべき道を見出し、自らの茶の湯の中心にその所作を取り入れたのではないでしょうか。



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そうみると、利休の考案したにじり口は「狭き門より入れ」という言葉を想起させますし、世俗と切り離された茶室という空間で、身についた全てを捨て去り、ただ亭主と客というだけの関係の中で、茶の湯の亭主は、さながらミサにおける司祭のごとく儀式を司っているようにも見えます。



武者小路千家14代家元不徹斎宗匠は、かつてヨハネ・パウロ二世教皇あての書簡に「私は京都のカトリック系の学校に通っていたころを思い出します。すでに茶の湯の心得があったので、チャペルでのミサに出席するときも、茶道との共通点を少なからず発見しました。…司祭だけでなくキリシタンの武士や商人を相手に、千利休が語らう機会は多かったはずです。妻と家族も信者であり、ミサにあずかっていたと思われます。ただし自身は、キリスト教徒だとは公言していません。…茶道への新たなとりくみを模索していた千利休は、ミサという最後の晩餐の再現に深い感銘を受けたのだと、私は考えます。」と書いています。