堺と日本酒



堺

堺と日本酒 酒といえば関西では灘、西宮、伊丹、池田それに伏見というのが、今も、世間で まかり通っている常識であろう。しかし、堺は、江戸時代から明治・大正に到る まで、これら酒造地と並ぶ一大酒造業の中心であった。



堺の酒造は、かなり古い。室町時代、15世紀半ばの『蔭凉軒(いんりょうけん) 日録』という文献にも登場しており、その最盛期は、江戸時代。生産高では、灘、 伊丹、西宮に次ぎ、4位。酒屋の数は、西宮より多かった。灘などと比べれば、比 較的小規模の酒造家が多かったようだ。



明治維新後の1871年、それまでの酒造の株仲間制度から、誰でも酒類免許税、酒 造営業税を納めれば酒の醸造ができる免許鑑札制度に変わり、酒造家の数が増加 し、その数は、95蔵に達している。堺の酒造業は、日本の近代化の波に乗った他 の産業とともに発展していった。そして、この近代化の中核となったのが、大酒造 家たちだった。中でも、もっとも著名な人物、それが、鳥井駒吉(註)である。



1884年11月、政府は同業組合準則を定め、府県に頒布して同業組合の結成を奨励 したが、これを受け、堺でも、85年から86年にかけて、酒造組合が組織された。 この時、初代の組合長に選ばれたのが、鳥井駒吉であった。彼を中心とした酒造組 合は、三つの新規事業を行った。

最初の事業は、1886年に鳥井駒吉、宅徳平、宅常三郎、石割七左衛門の四名が首 唱者となって、堺酒造改良試験所を創設したことである。「この試験所は原料の米、 水、麹を科学的に分析 し、また酒の貯蔵技術の開発を目的とするもので、併せて 同業者有志の子弟に新技術を伝授せんとするものであった。この試験所は好 成績 をあげていることを伝え聞き、全国各地から見学者が多数訪れるありさまであっ た。」



水源


第二の新事業は、明治20年鳥井駒吉ら七名が中心になって、神明町に共同醸造場 を開設したことである。これは、1887年のことで、鳥井ら7名が中心になっている。 目的は、共同事業によるコスト削減である。(良質の酒を造るためであったとする 説もあるが、実際、共同事業を行うことが、必然的に酒質の向上につながるとは限 らない、というのが筆者の意見である)この共同醸造場は、1888年株式会社になり 堺酒造株式会社となった。

酒造組合事務所

第三の新事業は、堺酒造組合が、1890年組合機関誌として『堺酒造月報』の刊行 を始めたことである。この機関誌は堺市立中央図書館に所蔵されている。 同業組合は、輸出増進による外貨獲得が、国の重大な政策課題となっていくなか、 法的な整備ともに、やがて重要輸出品同業組合へ、そして産業組合へと変わって いった。このことは『堺酒造月報』 に早くから反映しており、清酒の海外への輸 出振興に呼応して、毎号輸出統計が掲載されている。

そして、清酒の海外輸出を真っ先に手がけたのも、 鳥井駒吉であった。海外輸出 の大きなきっかけとなったのが、1888年(明治21年)スペインのバルセロナで開 催された万国博覧会である。この時、鳥井は、自らが日本で最初に考案した瓶詰 めのお酒を出展したのだ。イラスト1この時に瓶は残っていないが、初期の海外輸出には、 陶磁器製の瓶が使われていたので、おそらく、そのようなものであったと推測さ れる。この時代に先立ち来日した、エドワード・モースのコレクション中に、ラ ベルから日本酒が入っていたと確認できるガラスの瓶が、見つかっている。しか し、これは、舶来のワインの瓶に、そのまま清酒を詰めたもので、横浜の外国人の 需要を念頭に置いたものだと考えられている。これにヒントを得たかどうかは不 明であるが、堺の鳥井駒吉が考案した瓶詰めの清酒は、日本の酒容器の歴史上、 画期的なものであったことは間違いない。

バルセロナ万博への出品を契機に、1891年から、堺の清酒は、朝鮮、沖縄、ウラ ジオストック、ハワイへの輸出が始まった。95年にはサンフランシスコ、97年に は台湾へのと輸出は拡大していった。この頃、伏見の月桂冠、灘の菊正宗も、北米 への輸出を始めていたが、海外輸出では堺の方が先駆者であったのである。さらに、 驚くべき史実がある。

それは、当時の堺の清酒の最大のマーケット、それは、国内ではなく、海外、朝鮮 だったということである。東京へ売られる酒は、朝鮮の約3分の1にすぎなかった のだ。しかも、朝鮮では、特に堺の金露が大人気で、京城に輸入される清酒の70% を占めていたほどで、原産地で比較しても、堺8、灘2という割合で、圧倒的に堺の お酒が、朝鮮では飲まれていたのだ。しかし、この需要の中身は、朝鮮人はごくわ ずかで、ほとんどが在留日本人だったようである。

一つ興味深いデータがあるので、紹介しておこう。輸出の際には、堺港から、大阪 か神戸へ運ばれるのであるが、1907年に堺港で積載された貨物の出荷額の合計は、 約600万円。そのうち、最大の比率25%(約160万円)を占めていたのが、「和酒・ 瓶詰和酒」であった。堺の近代工業を代表する綿・木綿・屑糸及び煉瓦の合計額 (約100万 円)をはるかに上廻っていたのである(『大日本帝国港湾統計』に よる)。この数字を見れば、当時、堺において、いかに酒造業が大きな地位を占め ていたかがわかる。



イラスト1


しかし、このように急速に発展した堺の酒造業も、明治20年代末から30年代初頭 をピークに、年々減少していく。その原因の一つは、発展の陰で燻っていた水の問 題である。堺の 酒造業は、既に明治20年代初めから、醸造用水の不足に困り、 仕込水を灘や西宮の水に頼っていた。この傾向は、年々造石高が増加するにつれ 大きくなっていった。そこで、その対策として、1921年(大正元年)10月から 井戸水を積極的に利用のための技術開発を行い、一定の 成果を収めたのであった が、水不足が完全に解消したわけでなかった。そして、仕込水の移入は、やがて、 酒そのものの灘からの移入(桶買い?)へと変わっていった。この背景には、水 の問題だけではなく、堺では、市街地が密集しており、酒造のための敷地を広げ ることが困難だったという事情もあったようだ。しかし、このような変化は、輸 出需要に応えるための苦肉の策だったとはいえ、明らかに、同じ業界での競争に 勝ち抜く力が衰えていく、ひとつの兆候だったのだろう。それでも、1920年(大 正9年)末の時点でも、清酒は、綿糸、綿織物に首位の座を明け渡したとはいえ、 まだ第2位を占めており、戦前まで、20数蔵の酒造家が酒造りを行っていた。 しかし、戦時下の国策で酒造が制限されて、18蔵あった酒造業者は、1943年 (昭和18年)、堺酒造株式会社に一本化されたものの、戦争で多くの酒蔵は焼 失した。戦後、堺酒造は新泉酒造と名前を変え、1966年(昭和41年)、灘の酒 造メーカーと合併し、堺の酒造りは幕を閉じた。

また、灘に移った造られていた堺の銘酒、金露(金露酒造)や都菊(肥塚酒造) も、1995年(平成7年)の阪神大震災によって被災し、堺の清酒は、ついに 消滅することになった。



註) 鳥井駒吉 嘉永6年(1854)~明治42年(1909)
   下記は、堺市立図書館のウェブサイトより引用



鳥井駒吉は、明治3年(1870)17歳のとき家業の酒造業をつぎ、明治12年に堺酒 造組合を組織化し堺の酒造業者のリーダー的存在となりました。「堺醸造改良試 験所」を設立して酒造業の振興と醸造法の改良を行い、明治26年には「鳥井合名 会社」として酒造業を個人経営から会社化しました。イラスト1酒造業以外にも先見の明を 持ち、南海電鉄の前身である阪堺鉄道を敷設するメンバーの中心になり、堺貯蓄 銀行を設立するなど明治の堺の発展に大きく貢献しました。 また一方で、当時ぜいたくな飲み物とされていたビールが今日のように盛んに飲ま れるであろうと予測して、三島郡吹田にビール工場を建設しました。これが現在の アサヒビールです。



鳥井駒吉は、堺や大阪で様々な公職につき、めざましい活躍をするとともに神仏 を敬い、母に孝養をつくす人でした。大浜に酒造業者の集まる倶楽部として「旭 館」を設け、「半静」「粋處」と号して、俳句や茶の湯をたしなみ、書画にすぐ れました。



上記の文章を書くにあたって、参照したウェブサイト



酒文化研究所 堺の酒小史 角山榮

http://www.sakebunka.co.jp/archive/history/003_1.htm

  堺市立図書館 堺と酒造

https://www.lib-sakai.jp/kyoudo/kyo_digi/monodukurisakai/monodukuri_syuzou.htm